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埼玉県の中央構造線を歩こう!new

滑川町周辺

下図は、大鹿村中央構造線博物館が提供している中央構造線マップです。

滑川町あたりを拡大します。

中央構造線マップ

なぜ滑川町なのか。それは・・・

中央構造線が南北にずれており、その付近に異様に寺社が密集しているからです!

特に淡洲神社!何ででしょう????

文殊寺 文殊寺

まずはカックンの角にあたる、熊谷市野原の曹洞宗五台山文殊寺。

ご本尊は聖徳太子が祀ったと伝えられる文殊菩薩。「京都の切戸(天橋立)文殊」「山形の亀岡文殊」と並ぶ「日本三体文殊菩薩」のひとつです。

文殊寺のホームページによると、「寺の言い伝えによると、古くは五台山能満時という天台宗の古刹でありましたが、室町時代の文明13年(1481年)に焼失。 その2年後に比企郡高見の四ツ山城主、増田四郎重富が再建し、宗門を曹洞宗に改め、五台山文殊寺と称したとされています。」

ふーむ。元々は天台宗だったのか。看板によると少なくとも鎌倉時代より前に創建されている。。

ポンポン山

そして傍らの案内板をみると、「ポンポン山」が!!!!あー行きたい、でも今日は行けない。。後日必ず行くぞ、おー!!

野原八幡神社 八幡神社

野原八幡神社

創建不明ですが、寛永20年(1643)の棟札が残っています。

ご祭神は誉田別命。神功皇后の息子、応神天皇ですね。境内社は、雷電神社、三峰神社、鹿島神社、愛宕神社、山之神神社、稲荷神社、天満神社。

八幡神社

八幡神社裏から西方にかけて野原古墳群が見つかっており、国立博物館に展示されている「踊る埴輪」が発掘されました。

また、災害復興記念碑によると、寛永20年の棟札に、「別当金蔵院源覚法院」、武蔵国風土記稿には「本山派修験八幡山大徳院」の名があります。

「埼玉の神社」によると、「社蔵の九石は創建当初から祀られていると伝え、神霊の宿る石として大切にされている」との事。

本山派修験に、三峰神社、鹿島神社、愛宕神社、山之神神社、稲荷神社。磐座っぽい石。

なんだかやっぱり鉱物の気配があるなあ。。

浅間神社 浅間神社

浅間神社。

創建不詳ですが、看板によると、「伝えでは久寿二年(1155)年帯刀先生義賢が菅谷大蔵館で鎌倉悪源太義平に殺害され、その時義賢の家臣数人がこの辺りに落ちのびて土着、その子孫が天福年中に義賢の霊を祀った。天福の福、田圃の田で福田の知名になったというが、これについては定かではない」との事。 ご祭神は木花開耶姫命、源義賢公。境内社は、下浅間神社、雷電神社、津島神社。

浅間神社 浅間神社

確かに前方後円墳に見える。

旱魃でも干上がらなかった池は健在です。

浅間神社 浅間神社

凝灰岩が顔を出しています。表面が剥がれると真っ白です。

池と岩、どちらもご神体だったのかもしれませんね。

「埼玉の神社」に、「口碑に《浅間様は落人が来て祀った》《昔は黒岩山(現森林公園内)に祀られていたが、火災にあい、火の玉となって現在の地に飛んできた》とある」との記載が。

そして、「本殿前を下る参道を男坂と称し、その中腹に大きなくぼみがある。天狗の足跡と言われ、昔天狗が高見の四津山に手をついてこの浅間山の岩肌に足を突っ張り、大あくびした時についた足跡だという。もう一説、天狗が当社から文殊様まで一っ跳した時に右足を踏ん張った足跡で、左足跡は文殊様のほうにあると言う。」「日常の祭祀は本山派修験大光院が行っていた。現宮司の吉田家はその裔である」とも。

うわ、黒岩山に天狗様に修験だーー。ここも鉱物な感じですね。。

馬頭観音 馬頭観音

福田 馬頭観音(曹洞宗心田山成安寺)。

看板によると創建は宝亀9年(778)白髪の老僧が当地で百日の祈願を行い、この願いを馬頭明王が聞き入れてくれました。ご加護のお礼に晴照庵を造り、自作の馬頭観音像を安置したと言われています。、その後高野聖筮周が庵を再興したとの事。

寺内には滑川町最古の板碑(1251年)もあります。

ん?高野聖?そういえば日光の輪王寺に慈覚大師円仁がお祀りしたのは馬頭観音で、味耜高彦根命の本地仏とされたのではなかったかしらん??

熊野神社 熊野神社

福田 熊野神社。

創建不詳ですが、看板によると、室町時代より前に創建されたと推察され、熊野速玉神社の分社として祀られたとの事。 ご祭神は伊弉諾命、事解男命、速玉男命。

おおー熊野速玉神社出てきましたねー。

「埼玉の神社」によるとご神体の熊野三所権現像は付近の分山から切り出された石材で作られたとの事。福田石でしょうか、

慶徳寺 慶徳寺

加田 曹洞宗医王山慶徳寺と三島神社。

創建不詳ですが、ご本尊の薬師如来は行基作と伝えられるとの事。「目の薬師」として、よく知られていたそうです。

おおー行基様だー。

慶徳寺 慶徳寺

そして荼枳尼天堂も!

近くの廃されていた三島神社もこの寺関係ですねきっと。

こちらの寺社も鉱物の気配が。。。

淡洲神社 淡洲神社

さて淡洲神社のトップバッターは薬王寺淡洲神社。看板には土塩と書いてありますが、バス停は薬王寺で、地形図も薬王寺ではないかと。

創建は天明3年(1783)、天児屋命第58代的伝神祇道唯一人吉川源十郎源従門が、神功皇后の三韓鎮定の広徳を仰ぎその神霊をこの地に奉祀したとの事。ご祭神は速御玉比売命。境内社は金毘羅社、天神社、三峰社。

この吉川さんは、徳川幕府により、吉田神道の正統の教義を継承した者とみなされ、幕府神道方として世襲職として任命されたそうです。なぜ、中臣の祖先神天児屋命に関わる吉川さんがわざわざここに神社を創建したのでしょうか。。

速御玉比売尊をお祀りする延喜式内社、比企総社の「伊古乃速玉比売神社」が近くにあります。後で行かなくちゃ!

淡洲神社

修理記念碑には贄田氏のお名前が!

「日本姓氏語源辞典」によると、「埼玉県比企郡滑川町山田が本拠地。延暦2年(783)に、贄田物部首の姓氏の記録有り」との事。

物部も出てきましたね。

ん?山田にも淡洲神社があるぞ!さあ行こう!

淡洲神社 淡洲神社

と、その前に、福田淡洲神社へ。

説明板によると、創建不詳ですが、神功皇后が熊襲平定に功績を挙げた事を尊び、祭神として祀ったと伝承されるとの事。ご祭神は息長足姫尊(神功皇后)。境内社は見当たりませんでした。

「埼玉の神社」によると、出土品により、宝徳2年(1450)には既に進行を集めていたとの事。また、「別当のほかに当社の祭祀にかかわっていきた本山派修験大光院の裔が、現宮司の吉田家である」との事。

淡洲神社 淡洲神社

山田淡洲神社

説明板によると、創建は応永2年(1395)、神功皇后の三韓鎮定に大功があったのを里民尊崇してその神霊をこの地に奉祀したとの事。しかし、「埼玉の神社」では、「創建不詳、往古紀州神社(和歌山県海部郡加太町鎮座の式内社加太神社・俗称淡島明神と思われる)御分霊と言い伝えられるが、宝永7年(1710)霊代を改めて鎮守たり」との記載が。

ご祭神は誉田別命、息長足姫命(神功皇后)、素戔嗚命。境内社は

天満天神社、雷電社、山王社。奥に塚があり、御嶽山大神の石碑と石斧群がお祀りされています。

「武蔵国風土記稿」には淡洲明神社、東光寺持ちとあります。

この東光寺ですが、現在のどの寺に当たるのかは不明なのですが、「武蔵国風土記稿」によると、「下青鳥村浄光寺の末、医王山瑠璃光院と号す」とあり、ご本尊は阿弥陀如来、薬師堂ありとの記載が。

東松山市下青鳥の浄光寺といえば、ポンポン山ー岩殿観音ラインに乗っていた氷川神社の別当寺です!!

そして青鳥の地名の由来が、「埼玉県地名誌」によると、「伊古乃速玉比売神社」の大鳥居からの転との説があるようです。

追記

ある日、何気なく「関東迅速地図」を眺めていたら、この神社は「雷電社」と書かれていました。明治時代には「雷電社」として認識されていたのでしょうか。「埼玉の神社」では、雷電社についての記載はありませんでした。うーむ。

淡洲神社淡洲神社

大雷淡洲神社。

説明板によると、創建は応永2年(1395)、旱魃が多いので、雨ごいの神大雷神と三韓鎮定に功績のあった神功皇后をの祭神として奉祀したとの事。しかし、「埼玉の神社」では、「創建不詳、宝永7年(1710)霊代を改め鎮守たり」としています。

ご祭神は大雷命、息長足姫命(神功皇后)。

淡洲神社 淡洲神社

ところが扁額には、大雷、淡洲、日吉と書かれており、埼玉の神社」によると、化政期(1804-30)以降に日吉社が合社されたと考えられる」との事。

淡洲神社 赤熊神社

ついに来ました、伊古乃速玉比売神社。延喜式内 比企総社、旧郷社。

二ノ宮山ににあった社を文明元年(1469)当地に遷座、ご祭神は、気長足姫命(息長帯比売命)、大鞆和気命(誉田別命)、武内宿禰 。本来のご祭神は速御玉比売命だろうと言われています。境内社は、天満宮、金毘羅神社。参道が別にある神社も隣にありました。

東松山市青鳥の地名の由来となったという説がある神社です。

ちょっと長いですが「武蔵国風土記稿」を引用します。

《一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、往古は殊に大社にて一の鳥居は近隣石橋村の小名、内青鳥と云所に立りしと云、按るに比内青鳥と云所は、「小田原役帳」に青鳥居とあり、されば古へ鳥居のありしより、地名にもおひしなど云はさもあるべけれど、當社の鳥居なりしことは疑ふべし、ことに間二里餘を隔てたり、また比社式内の神社と云うこと、正しき證は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり、別当円光寺 天台宗、東叡山の末、岩曜山明星院と号す、 [中略]薬師堂 薬師は当社の本地仏なりと云》

つまり、詳しい事は伝えられていないという事ですね。

「埼玉の神社」に、「速御玉比売命は、安房国一ノ宮の天太玉命の后神である天比理乃咩(あめひりのめ)命の異名である」という説の記載がありました。おお、安房だ。。

そういえば、「武蔵の古代史」にも、阿波と安房と武蔵の国造は物部一族だとの記載が。

徳島といえば、中央構造線通ってますねー。

速玉というともう一つ思い出すのは、熊野速玉神社。もともと岩がご神体です。(神倉神社のゴトビキ岩)

こちらの神社も本来あったのは二ノ宮山。

二ノ宮山に行かないと!

淡洲神社 淡洲神社

二ノ宮山は伊古乃速玉比売神社のほぼ真西1キロ位ある、滑川町の最高峰、標高131.8mの山です。その頂上に伊古乃速玉比売神社の奥宮があります。

頂上の平成9年解説板

「その昔武内宿禰が東国に巡察した折、この山に登り里の状況を視察したと伝えられています。その後子孫が、宿祢、神功、応神の三神を祀ったのが比企総社といわれる伊古乃速玉比売神社です。山頂の神社は伊古乃速玉比売神社の奥宮として祀られており、古くは二ノ宮山自体が信仰の対象となっていました。」

武内宿禰!?

古事記、日本書紀によると、、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕え、神功皇后とも関係が深く、 紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族27氏の祖ともされる人物ですね。記載も多岐にわたっています。

その中で、神功皇后摂政前紀では、神功皇后は斎宮に入り、自ら神主となって仲哀天皇に祟った神の名を知ろうとしたが、その際に武内宿禰は琴を弾くことを命じられたと書かれています。琴を弾くというのは、神を降ろす行為と関係しており、この事から武内宿禰は審神者でもある事が伺えます。

武内宿祢の子孫について、「埼玉の神社」に下記のような記載を見つけました。

《由緒は「明細帳」に、「人皇二十四代、仁賢天皇ノ御宇、蘇我石川宿弥ノ末裔、此里ヲ開キ君祖三幹平治ノ広徳ヲ仰キ字二ノ宮ノ山上ニ弓箭ノ祖、安産ノ祖ト崇敬シ三柱ノ神霊ヲ祭祀シ、延喜式内ニシテ比企郡ノ惣社タルコト皆世人ノ知ル処ナリ」とある。》

淡洲神社 淡洲神社

昭和48年の石碑にも「仁賢天皇の御代(継体天皇(450?即位)の2代前の天皇)に創建」とあります。

宮司に能見氏の名前があります。「埼玉苗字辞典」によると「ノミ 野(の)は野生(のう)、能(の、のう)は能生(のう)と称す。生(うみ)は海の佳字を用いて、野海(のうみ)、能海(のうみ)能美(のうみ)、能見(のうみ)、納見(のうみ)と称し、是等の氏族は山陰地方と、出雲族の移住地武蔵国に現存す。(中略)出雲臣族野見宿祢 出雲国風土記の野見(島根県飯石郡赤来町上赤名字呑谷)に居住す。上赤名村は蹈鞴(たたら)製鉄の盛んな所である。」と書かれています。

付近には八大龍神と御嶽山大神の石碑と石斧群がお祀りされています。。

「埼玉の神社」では、二ノ宮山での雨乞について下記のように書いています。

《滑川町一帯では、農業用水として数多くの溜池が造られているが、日照りの続く年は、二ノ宮山上で雨乞いを行う。雨乞いの時は、村人が当社に集まり、生きた「やまかがし」を入れた長さ5m余りの藁蛇を作る。この蛇は、笛や太鼓の囃子で送り出され、伊古堰と新沼に入り、大いに揉む。次いで二ノ宮山頂に登り、山上の松の古木に蛇を縛りつける。蛇は、天に昇って竜となり雨を降らせる》

龍ですねー。

淡洲神社 淡洲神社

ふと神社の脇の地面を見ると、白い凝灰岩に交じって明らかに緑色の凝灰岩が!

嵐山町web博物誌[地質編]によると、「埼玉県は非グリーンタフ地域になりますが、嵐山町に分布する七郷層・滝層・畠山層などの地層は、岩相的にも年代的にもグリーンタフと認定できるため、ここではグリーンタフとして紹介します。嵐山町がグリーンタフ地域に含まれるかどうかは、今後の研究課題です。」との記載が! そして、特別付録の地質観察ガイドの比企丘陵編では、二ノ宮山が埼玉県のグリーンタフとして紹介されています。

おおおお。グリーンタフが埼玉県にも!?

グリーンタフといえば、黄鉄鉱や黄銅鉱など多金属硫化物鉱床(通称黒鉱鉱床)が産出する可能性が!?

調べてみたら、なんと伊古では 黄鉄鉱が産したらしい!

ところで、伊古という地名も不思議です。「埼玉県地名誌」によると、伊古の地名の由来は、伊古乃速玉比売神社を省略して呼ぶようになったとの事。

ところが「埼玉の神社」では下記のような説を紹介しています。

《当社は「和名抄」に載る比企郡渭後郷に比定される。読みは、水辺を表す「沼乃之利(ぬのしり)」とされる。この名残として、式内社である当社は、社名に伊古(渭後)を冠している。渭後は滑川に沿う細長い谷間の土地で、山あいに数多くの溜池が設けられ農業用水に利用されている。現在の溜池を古代にまで遡ることはできないが、古代においても溜池から水を引く方式は認められてよく、このことから渭後の地名も付けられたのであろう。  なお、この渭後郷の地名については、渡来系氏族壬生吉志(みぶきし)と関連があったとする仮説が「東松山市と周辺の古代」(原島礼二)「古代東国史の研究」(金井塚良一)に載る。七世紀初頭前後に、比企及び男衾方面に横渟屯倉(よこぬみやけ)の管掌者として摂津国難波から入植した壬生吉志は、本拠地である難波の地名を比企の渭後、都家、高生、さらに男衾の榎津にもたらしたとする。葬制においても、これらの地は、従前の横穴式石室の腹部に膨みをもたせて胴張型に変化し、渡来系氏族の墓地として想定し得る。渭後郷を難波にある地名と関連づける理由は、渭後が「いかしり」とも読めるので、摂津国西成郡に鎮座する式内社座摩(いかすり)神社とかかわりがあるという。また、座摩の御巫が祀る神は、「延喜式」神名帳の宮中神に見える生井神、福井神、綱長井神、波比祇神、阿須波神の五座を示す。いずれも、井水や敷地を守護する神である。 》

そして、各地の淡洲神社に見え隠れする淡島信仰。総本社加太淡嶋神社のご祭神は大己貴命 少彦名命 息長足姫命。婦人病治癒、安産、子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がったとの事。ご祭神の淡島神(淡島明神)のご本体は、少彦名神、伊弉諾神と伊弉冉神の第二子、住吉明神の后神、牛頭天王の后神(婆利塞女)などの説があります。淡島信仰も鉱物っぽいですね。。あれ、荼枳尼天堂のあった薬師堂の地名加田だぞ!?

なんだか色々出てきてしまって大混乱。。アワに、淡島信仰、武内宿禰に、蘇我氏に、能見氏に、吉志氏、中央構造線に、グリーンタフ、もしかすると熊野、そして吉田神道。。。

この地に移って来たのは誰だったのでしょう??

その人々は、中央構造線の場所を分かったうえで、このカックン地帯に移り住んで来たのでしょうか。グリーンタフに伴う鉱床を目当てにやってきたのでしょうか。それとも??

伊古乃速玉比売とはどんな神様なのでしょう?? 伊古の意味は?? 

そして、江戸時代になって、それも吉田神道が創建した理由は??

謎は深まるばかりです。

羽尾神社羽尾神社

またまた出てきました、青鳥絡みの羽尾神社。

説明板によるとご祭神は倭建命、藤原恒儀公。

この神社は由来がかなりはっきり記録が残っていて、「埼玉の神社」に詳しく書いてあります。要約すると、「奈良に上った恒儀公が相撲に負けて相手を殺してしまったので、愛宕の天狗に乗り奈良から逃げ出し、岩殿に帰着し、そこから岩殿の僧に導かれて青鳥城に帰り、その後京の愛宕を勧請し、死後土地の女性に郡都を守りたいから明神として自分を祀ってほしいと託し、それを聞いた子供の恒政が社殿を造営し、家臣の設楽行連に祀らせた。その子孫が、本山修験の末愛宕山別当金剛院となり、現在も宮司を務めている」。

岩殿山と青鳥の繋がりも出てきましたねー。

「埼玉の神社」では、ご祭神の倭建命は明治2年の神仏分離令でご祭神にされて、氏子が抗議し続けて、昭和21年にやっと恒儀公をご祭神に加える事を許可されたそうです。でも解説板をみると、倭建命もこの地に関係しているみたいに書いてあるし。ふーむ。なんでそんなに恒儀公を問題視しているんでしょうか。

そして相撲。この羽尾の地名の由来は、「はに」から起こったと言われているそうで、6-7世紀には登り窯で須恵器を作っていたそうです。

氏子には金光寺地区が含まれており、裏郷、平、下郷には「ササラ」と呼ばれる獅子舞が伝わっており、当社に奉納されていたそうです。

追記

「滑川村史」に「恒儀公が戦に行った時大麦で目をついてしまった」という伝説を見つけました!恒儀公は製鉄に関わっていた人なのでしょうか???

諏訪神社諏訪神社

羽尾神社絡みで諏訪神社。こちらの氏子さんはは羽尾神社の氏子にもなっているそうです。

説明板によると、創建は文亀2年(1502)小林家の氏神の諏訪の神様を金剛院がこの地に勧請。ご祭神は建御名方命、八坂刀売命。

「例祭前夜に信州の本社より龍神が渡御するので中尾耕地に竜の通った跡が見られた」という竜神伝説や、諏訪大明神の化身の蛇が姿を現すという小林家内の「お諏訪様の池」と呼ばれる遊水地があるようです。「ササラ」獅子舞も奉納されています。

境内には八意思兼神、彦狭知神、手置帆負神の石柱も。手斧初の神事が行われたのでしょうか。

やっぱり鉱物っぽいですね。

参考資料
  • 「中央構造線マップ」大鹿村中央構造線博物館
  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「滑川町史」
  • 「埼玉の神社」
  • 「埼玉苗字辞典」 茂木和平著
  • 「埼玉県地名誌」 韮塚一三郎著 北辰図書
  • 「武蔵の古代史」 森田悌著 さきたま出版会
  • 「大江戸魔法陣」 加門七海著 河出書房新社
  • 「青銅の神の足跡」谷川健一著 集英社
  • 「スーパー地形」 アンドロイド アプリ
埼玉の中央構造線を歩こう! 目次

更新 2019/06/16