埼玉県の中央構造線を歩こう!
東松山市周辺
下図は、大鹿村中央構造線博物館が提供している中央構造線マップです。
東松山市あたりを拡大します。
なぜ東松山市大谷地区なのか。それは・・・
神光谷という地名を見つけたからです!なんて意味深な地名。。。
東松山地域は昔は比企郡でした。森田悌氏は「武蔵の古代史」で、比企の由来は日置部の人々が沢山移り住んだからだと述べています。日置部は物部氏に連なる出雲からやってきた人々で、審神、武器製造を担っていたようです。
神光谷のバス停でバスを降り沢に向かって歩いていたら、地図には載っていない薬師堂を見つけました。中央構造線上ドンピシャに近く、ちょうど地層の境です!(赤★印の場所)
扁額には平成22年12月とありますが、境内には古そうな石仏がお祀りされています。
境内には由緒書きなどなかったので帰って調べてみたら、この薬師様は、目のご利益があり、祭礼の日には目を書いた灯篭をお堂の両脇に灯すそうです。祭礼を東松山市がYouTubでアップしています。
やっぱり鉱物関連だったー!!
そしてこの沢の上流を辿ってゆくと、雷電山古墳があり、雷電山には一本足の山姫伝説もありました!
神光谷を下っていくと、和田吉野川との合流地点付近に、吉見神社が見えてきます。
吉見神社手前の白い建物の前の揚水ポンプのあたりは真っ赤でした。鉄だーーー
吉見神社
創建不明ですが「埼玉の神社」によると、所説あるが、和銅六年(713)とも言われているとの事です。案内板が無いので、「埼玉の神社」の内容を書き出します。
「倭国・山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して、多里郡(大里郡)を置き、後に天照大神ゆかりの筬を神体として天照大神を祀り、以来、御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している、とある。現宮司須長二男家はこの末である。 また、別の文書には、御諸別王が関東下向の時、当地を開こうとして天照大神に祈誓したところ、こんこんと泉が湧き出し、数万町の水田が日ならずして成った、ここに天照大神を斎い祀った、とある。 このように、当社の創建を語る時には、必ず天照大神を祀って水田を開き豊かな土地となる話が基になっている。これは、伊勢御厨の設定につながる伝承と言えるであろう。」とあります。
また、上吉見領23ヶ村(村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八林・箕輪・冑山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曽根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・戸塚新田)の総鎮守として祀られていたものの、今は相上のみの鎮守となっているとの事です。
ご祭神は天照大神。境内社が沢山あります。
確認できただけで、
鳥居横の石祠:豊岩間戸命、櫛岩間戸命
参道左側の末社群: 天神宮、金毘羅大神社、頭犬宮、辯才天女宮・牛頭天王・八幡
末社群の先にまたある末社群 :三島・興玉・秩父・荒神・玉造・斎・浅間・日枝・雨降・加々美・二荒・水分・養蚕・豊受荒魂
社殿に向かって右側の末社群:月讀・風祈・春日・鹿島・香取・氷川・杵築・伊弉諾・御年
摂社:伊奈利神社・東宮社・天神社
もともと境外摂社だった東宮社は、大里郡神社誌によると「東宮社のご祭神は祭神建豫斯味命、御諸別王、磐麿卿とす。けだし建豫斯味命 は建夷鳥命の子にして牟刺国造の始祖なり。 この命の御名により、この地名を豫斯味、則ち吉見(横見)と称すとも伝える。 ゆえに吉見神社鎮祭の祖、御諸別王ならびに後孫磐麿卿と合祀する。 東宮社と崇奉す旧字上中区に、鎮座せり。」との事。又隣の天神社の祭神は天穂日命・建夷鳥命との事。
建豫斯味命?聞いたことが無いお名前です。
そしてまた吉見の名の由来が、埼玉地名誌とは違っていますね。
吉見町(横見郡)では横見神社と名前が変わっているのに、熊谷市(大里郡)では吉見神社のままなのは、このためでしょうか。
いろいろ謎な神社です。
追記
建夷鳥命は、「武蔵の古代史」によると、出雲国造の他に、阿波国造(千葉の安房国)やいくつかの上総国の国造の祖神と記されている神様で、「関係国造は全国に渉っているが、四割に当る五国造が房総地域であるのは注目してよいように思う」と記載されています。土師氏の祖神でもあります。このことが滑川町の淡洲神社と関係しているのでしょうか。
地質図で見ると、吉見神社は、和田吉野川の蛇行によって作られた自然堤防の際にあることがわかります。
砂鉄も溜まりそうな場所ですね。
裏には沼があり、「武蔵国風土記稿」によると神龍が住んでいる伝説があるそうです。
もしかすると、雷電山は聖なる山で、神光谷の露頭には鉱物が露呈しており、下流域の吉見神社付近で採掘をしていたのかもしれませんね。
船木神社
「大里郡神社誌」では、創建不詳、ご祭神は豊受比売尊となっていますが、石碑をみると、「牙邪志国造兄多毛比命」とあるので、4世紀前半頃に創建されたようです。石碑ではご祭神は素戔嗚命。境内社は確認でしただけで、天神宮、白山神社、八幡神社、諏訪神社、日枝神社。
この神社も地図でみると中構造線上ドンピシャです。
宮司さんは、吉見神社と同じ須長氏です。
付近に弥生中後期の遺跡が出土しています。滑石の勾玉を製造していた事が確認されています。
比企の語源といわれる日置部の中の勾玉等を製造する人々が住んでいたのでしょうか。
原料の滑石は、緑色片岩相の高圧型変成を受けた付加コンプレックス中の蛇紋岩がら産出されます。荒川の上流の長瀞も産地の一つです。そしてなんとその母岩の苦灰石脈から滑石と共に自然金も発見されているのです!(ちなみに長瀞は砂金も採れるそうです)
「埼玉の神社」には、小名である「船木」の地名の由来は、日本武尊が当地に船で着いたという伝承と、兄多毛比命が船で着いたという伝承の2つを紹介しています。
当社の氏子の新田には金山様もお祀りされていたとか。
この場所もちょっと鉱物っぽいですね。
近くに同じ須長氏が宮司を務める冑山神社があります。古墳だし、行ってみよう!
冑山古墳・冑山神社。古墳の中腹に本殿があります。
「大里郡神社誌」では、創建不詳ですが、明治42年に賢木岡西村社冑山神社と八雲神社を合祀し、同時に元社号の日吉神社(長福寺の鬼門鎮護)を冑山神社に改称したとのこと。
ご祭神は大山咋命、誉田別命、牙邪志国造、素盞鳴命。
境内社は古墳の頂上に八幡神社。古墳を発掘したら病が流行ったため創建された神社で、こちらの方が立派です。
その他本殿右奥に2つ。
右手の石碑には鎮火神社と読めます。「埼玉の神社」によると当社の通称は金山様だとの事。
冑山古墳古墳からは銅鏡や玉類、武器、須恵器などが出土したと伝えられています。
中央構造線に戻って曹洞宗四国山光福寺。
創建不詳ですが、寺内に元亨3年(1323)に藤原光貞と比丘尼妙明の供養のために建てられた宝篋印塔があります。ご本尊は如意輪観音。
「武蔵国風土記稿」によると、寺内に行基作の座像があるとの事。
境内には薬師堂もあったようです。
この寺も地図でみると中構造線上ほぼドンピシャです。
近くには玉太岡神社も。
創建、ご祭神共に不明ですが、「武蔵国風土記稿」によると「神明社 雷光寺の持、雷電社 同寺の持、 以上二社共に鎮守なり」との記載があります。巨大なムクノキがご神木です。境内には2つ石祠がありましたが、どの神様をお祀りしているかは判別出来ませんでした。
また雷電が出てきました。
「武蔵国風土記稿」によると、岡郷はもともと玉太の岡とよばれていたようで、隣接する熊谷市玉作と関係があるようです。勾玉が出土した船木地区とも近いですね。
中央構造線に戻って上岡 馬頭観音(曹洞宗慈雲庵妙安禅寺)。
案内板によると、「妙安寺の境内にあるこの馬頭観音は、今から約八百年前の鎌倉時代(1185年頃~1333年)に瑞慶和尚により創建されたと伝えられています。」との事。
馬頭観音としては関東随一の霊場と言われ、境内は馬だらけです。縁日の日に開催される絵馬市には本物の馬もやってくるそうです。
上州上岡妙安寺馬頭観音縁起には、創建した瑞慶和尚は源義経と一緒に学んだ仲で、坂上田村麻呂に、平貞盛(平将門公討伐)、そして奥州藤原氏・藤原秀衡の名前も出てきます!
奥州平泉の金色堂とゆかりの黄金の尊像だー。
曹洞宗諏訪山妙安寺境内に建つ諏訪神社。
創建不詳ですが、「埼玉の神社」によると、文禄元年(1592)開山の妙安寺よりも先に創建されているのではないかとの事。ご祭神は不明、境内社は白山神社、稲荷神社、八雲神社、天神社。
赤熊神社。
創建不詳、ご祭神も不明。
手前の灯篭に神庭重左エ門の文字が!
神庭氏。出雲っぽい香りが。。。「日本姓氏語源辞典」によると、神庭という地名は島根県に2つあり、姓の分布としては、
顕著にみられる都道府県⇒島根県
顕著にみられる市町村⇒島根県、奈良県、埼玉県
顕著にみられる小地域⇒埼玉県東松山市大谷 (約100人)
!!!!!ここ???
東松山市付近の中央構造線近辺の寺社も、出雲(物部?)や鉱物の気配が濃厚でした。
更新 2019/06/14