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新河岸川を歩こう!new

梅雨のさなかのある日、突然、「そうだ!新河岸川を河口から源頭まで歩いてみよう!」と思い立ちました。
入間市笹井堰にて入間川の水を農業用水として取水した赤間川は、途中で新河岸川と名前を変え、北区岩淵にて荒川と繋がり隅田川となり、中央区豊海町で海に注ぐ荒川水系の一級河川です。
江戸時代には、江戸と川越を結ぶ大動脈として多数の船が行き交ったそうです。
桜

新河岸川の成り立ち

新河岸川は、武蔵野台地と入間川/荒川の間を流れています。

下図は、産総研地質調査総合センターの地質図とGoogleMapを重ね合わせた地図です。

地質図

武蔵野台地は、13万年から1万年前の間に古多摩川によって形成された扇状地で、河成段丘群と海成段丘群から成っています。関東山地を出た古多摩川は、青梅あたりから自由に氾濫しつつ、北東方向(武蔵野台地北西部)にも流れて、古荒川に合流していました。入間川も、古荒川に合流していたと思われます。

約2万年前から約1万3千年頃の立川断層による隆起の影響で、古多摩川は、北東方向への流れを止められましたが、その延長川の名残である広い谷底に、もとの流路を引継いで、「不老川」(としとらず)、「柳瀬川」、「黒目川」、「石神井川」等が出来ました。そしてそれらの川は、現在、新河岸川と合流しています。

ここで、荒川と利根川に目を向けてみましょう。

約2万年前、利根川と荒川は、行田のあたりで合流し、大宮台地の西側(現、荒川低地)を流れていました。渡良瀬川と思川は、羽生のあたりで合流し、今の古利根川のあたりを流れいました。そして、川口市の東方で2つの川は合流し、また、入間川、多摩川も合流して古東京川になり、東京湾を流れていました。今の浦賀水道がその名残と言われています。

この頃は氷河期で、地球上の多くの大陸が数千mという厚い氷に覆われ、海面が今より100m以上も下にあった為、東京湾も陸地だったのです。

この頃は荒川も入間川も利根川も、古東京川の支流だったのです。

氷期が去って気候が温暖となってくると,利根川と荒川の合流点あたりでは、荒川からの水量も増し多量の土砂を利根川河床堆積しはじめ、反対に造盆地運動で加須低地は次第に沈降し、とうとう約4000年前の縄文中期末、利根川と荒川は大宮台地の北部を乗り越え、加須低地へ流入するようになりました。その為渡良瀬川・思川には今までの1 0 倍以上の水量が供給されてしまい、川の周辺には広大な湿地帯が出来ました。

この時、入間川は荒川から分断され、現在の荒川の流路を流れ、直接東京湾へ注ぐ事になります。

現在の新河岸川の源流である赤間川と、昭和初期までの源流とされてきた伊佐沼は、共に、入間川の乱流の名残と思われます。

新河岸川の流域は、旧石器時代から人々が暮らしていました。入間川の笹井ダム上流の崖からは、アケボノゾウの化石が出ており、ゾウなどを追ってこの地にやってきたのでしょう。しかし、縄文時代中期以降になると、海退により食料が少なくなった為、人々は武蔵野台地から海岸地域などに移動してゆき、遺跡が少なくなってゆきます。その後、弥生時代後期になると、弥生文化とともに水田耕作の地を求めてやってきた人々が新河岸川水系に移住を始め、6世紀の古墳時代には大和朝廷の遠征軍が川づたいに進攻し、武蔵国として支配されるようになり、新河岸川水系にいくつもの古墳群が築かれてゆきました。川越氷川神社は、この頃創建設されたようです。

奈良時代になると、高句麗や新羅からの帰化人が、入間川の支流である高麗川や新河岸川流域に配置され、生活文化の上で様々な影響を受けました。その中でも、水利に乏しい武蔵野台地は、高句麗人の技術伝播により、焼畑により畑地となり、地力の衰えた後の草地で放牧が行われ、山や丘陵の斜面は桑園となり養蚕が行われました。

平安時代には、喜多院の前身である無量寿寺が創建され、伊勢物語にも流域各所が登場します。

藤原氏が中央で権勢を握ると、皇族やその他の貴族が地方に下り、土着して、地方武士となってゆきました。武蔵国では、いわゆる武蔵七党とよばれる武士団ができ、平安時代後期から室町時代まで勢力を伸ばしていました。そのうちの一つ、河越氏は、鎌倉幕府の御家人として重用され、源義経の正妻や、武蔵国留守所総検校職を輩出しました。

室町時代の長禄元年(1457)、扇谷上杉氏の命により、家臣の太田道真・道灌親子が川越城を築き、武蔵国支配の最重要拠点となりました。やがて小田原北条氏に支配され、天正18年(1590)の徳川家康の江戸転封に伴い、ここに川越藩が置かれ、江戸の北の守りとして、江戸時代の間、有力大名が治め、発展しました。

変遷

関東平野の川と舟運を語る上で、徳川家康によって江戸幕府開幕前から始められた「瀬替え」(河川の架け換え工事)について語らない訳にはいかないでしょう。伊奈備前守忠治、忠克親子、そして黒川金山衆が大活躍です。利根川も東遷、荒川も西遷させられ、これにより、関東平野は水浸しの沼沢地から穀倉地帯へと生まれ変わるのです。

上図は、国土交通省ホームページ「荒川の歴史」に掲載されている変遷前と変遷後の川筋の変化です。

  • ・1594年 会の川締切 会の川から佐波(埼玉大橋)の浅間川が利根川の主流となる。
  • ・1574年 蛇田堤 それ以後、今までの下流を古利根川と称す。 利根川は、浅間川→八甫→東西権現堂川→庄内川→太日川→江戸湾と流れる(「新利根川」)
  • ・1621年 利根川の新川通りの開削。南北権現堂川が利根川・渡良瀬川の流路となる。 南北権現堂川→東西権現堂川→庄内川→太日川(現・江戸川) 浅間川(高柳と間口の間の十王)や島川(八甫)の締め切りと廃川化。同年、赤堀川の掘削も始まる。
  • ・1629年 荒川の西遷。 荒川の久下先で吉野川(大宮台地の北部を乗り越える前の荒川の川筋)に付け替えて、市野川、入間川筋に流れる。 それまでの荒川は元荒川と称されるようになる。これにより、新河岸川も荒川水系となる。
  • ・1654年 赤堀川(川幅10間足らず)の3度目の通水成功。 川妻→釈迦沼→大山沼→水海沼→長井戸沼→常陸川
  • ・1665年 江戸川上流を境町・関宿間に移し、権現堂川を締め切り。これにより霞ヶ浦・銚子から常陸川・関宿・江戸川を経由し、江戸へといたる水運の大動脈が完成することになり、75年をかけた利根川東遷事業が一応の完了をみる。
変遷

吾妻鏡によると内川などと呼ばれていた新河岸川ですが、江戸時代には伊佐沼を源頭とし、今の九十川の川筋を流れ、扇河岸のあたりで不老川と合流し、現在の和光市新倉で入間川に合流していました。伊佐沼の上流部は江戸時代に編纂された正保国絵図「武蔵国絵図」、新編武蔵風土記稿によると、入間川が小ヶ谷で分流し、伊佐沼に流れ込んでいたようですが、1636年(寛永13年)に、現在の新河岸川上流部となっている赤間川用水が笹井堰から引かれ、周辺の湧水を合わせて伊佐沼に流れ込むようになりました。

新河岸川の舟運は、寛永15(1638)年に江戸から川越東照宮の再建資材を運搬したことに始まり、知恵伊豆こと松平伊豆守信綱が川越藩主だった正保年間(1644~1647)頃から河道整備を図り、新河岸や引又河岸等、20か所以上の河岸が設けられ、明治期まで物資輸送の中心となりました。

不老川の水量が一定せず冬などは干上がってしまった為、当初は九十川が合流する旭橋付近の上新河岸が最上流の河岸でしたが、九十川の水を回流し水量をふやして扇橋付近の扇河岸を開いたようです。明治時代に川越商人の要望により、より川越に近い仙波河岸が開かれました。

積荷は、川越方面からは米穀類、材木、薪炭、ソーメン、ゴザ等、江戸からは肥料、塩、小間物、雑貨、綿糸、石材等が主に運ばれたそうです。

引又(志木)河岸ではこれらの品物の他にも、江戸に向けて、近隣からの米穀類・小麦粉、青梅の薪炭、所沢の壁土、所沢・村山・八王子の織物、甲府の葡萄・生糸、幕末以降は所沢・三芳方面 からのさつま芋など、広範囲からの貨物が集まって来ていたようです。

天保年間(1830~40)からは乗客も運ぶようになったそうです。

このころの新河岸川は九十九曲がりと言われたほど蛇行を繰り返していましたが、一説には舟の運行のため水位 を上げようと、わざと曲がりを増やしたとも言われています。

舟運で繁栄をもたらした川も、一方では荒川と共に洪水を繰り返す川でもありました。特に明治43年の水害は記録的な被害をもたらしました。これを受けて、明治44年の1911年から荒川放水路の工事が始まりました。この工事には、日本人で唯一パナマ運河建設工事に携わった、青山士 氏も参加しています。

続いて大正10年から昭和5年にかけて新河岸川の改修工事も実施されました。この工事により両河川共、蛇行部分が直線化され、現在一部に残っている旧河川が生まれました。

新河岸川下流部は朝霞市新倉から、新たに造られた岩渕水門まで開削されて、かつての荒川下流部である隅田川につなげられました。一方の荒川は岩渕水門から下流で隅田川の東側に新たに放水路が開削され、東京湾に至る現在の流れが出来あがりました。

一連の工事により水害は減りましたが、このころには物資輸送はすでに鉄道に取って替わられていて、舟運の時代は終わりを告げました。

その後、新河岸川は昭和9年の1934年に、かつての最上流の河岸場であった仙波河岸跡から川越旧市街地に沿って開削され、市街地の北側で、狭山方面 から伊佐沼に向かっていた赤間川につながれ、現在の新河岸川の流れが完成しました。

現在の新河岸川は延長25Km、流域面積345平方kmの荒川水系の一級河です。埼玉県川越市上野田町の八幡橋に一級河川の起点があり、そこより上流は赤間川で、その源流は笹井堰をはじめとする入間川の取水口です。その後、湧水や農業用水の落ち水を集め、川越台地のへりを取り囲むように流れた後(ここまでは旧赤間川)、流路を南東へと変え、川越市の南東部で不老川と、もともとの水源である伊佐沼からの九十川に合流し、川幅は広がり大きな堤防で囲まれるようになります。九十川の合流後は、荒川の右岸、上福岡市、富士見市、志木市、朝霞市、和光市、板橋区を流れ、最後は北区岩淵水門近辺で隅田川に合流します。河川改修によって本来の流路は大きく変えられいますが、概ね武蔵野台地の崖線に沿って流れていて、地形は右岸側が洪積台地、左岸側が沖積低地です。

主な支川は上流から順に真土川、不老川、川越江川 、九十川、福岡江川、砂川堀、富士見江川、南畑大排水路、柳瀬川、黒目川、越戸川、白子川ですが、支川の大半が、武蔵野台地に元流域を持ち、新河岸川の右岸へ合流しています。

現在の新河岸川を流れている水は、利根川・荒川・入間川・多摩川と水をやり取りしています。

まず、新河岸川最上流部の赤間川は狭山市と入間市の3カ所で入間川から取水しています。

そして、もともとの水源だった伊佐沼は、昭和初期に赤間川から切り離された為、今は伊佐沼代用水路を通じて入間川の水を引いています。そして新河岸川に注ぐ九十川の水源は、伊佐沼と鴨田排水支線ですので、九十川の水はほぼ入間川の水です。

志木の新宮戸橋際からは、秋ヶ瀬取水堰から取水した水が隅田川の水質浄化用水として流入しています。この水は荒川の水であると共に利根大堰から取水された利根川の水でもあります。

一方、洪水時には新河岸川の水を荒川に放流する施設もできています。川越・上福岡・宮士見の3市の境界付近では放水路が開削され、荒川の旧河川であり、現在は調節池でもある「びん沼川」を経由し、富士見市の南畑排水機場から荒川に放流するようになっています。朝霞市下内間木のかつての新河岸川と荒川の合流点付近にも、荒川への放流のための朝霞水門と調節池が1995年に完成しました。

新河岸川の多くの支流の源流である狭山丘陵の内側は堰止められて、山口貯水池(狭山湖)と村山貯水池(多摩湖)になっています。ここに貯められている水は羽村堰から取水され、地下トンネルで引き入れられた多摩川の水です。この水は東村山の浄水場に送られ、多摩地区の人々に使用された後、清瀬の下水処理場から柳瀬川に入ってきます。

承応4年(1655)に玉川上水から分水した野火止用水も、新河岸川に注いでいますが、これも羽村堰から取水された多摩川の水です。

過去の歴史や自然に思いを馳せながら、新河岸川を歩いて行きたいと思います。

参考資料
  • 本ページの地質図は以下の著作物を利用しています。
  • 産業技術総合研究所地質調査総合センター、1/20万地質図幅「東京」
  • (https://gbank.gsj.jp/geonavi/geonavi.php)
  • クリエイティブ・コモンズ・ライセンス表示 - 改変禁止 2.1
  • (https://creativecommons.org/licenses/by-nd/2.1/jp/)
  • 地質図 産業技術総合研究所地質調査総合センター 
  • 天保国絵図 国立公文書館 デジタルアーカイブ 
  • 新編武蔵風土記稿 国立国会図書館 近代デジタルライブラリ
  • 国土交通省ホームページ
  • 荒川知水資料館、朝霞市博物館の展示
  • 「埼玉平野の成立ち・風土」 松浦茂樹 埼玉新聞社
  • 「川越市史」 川越市総務部市史編纂室
  • 「朝霞市の歴史」 朝霞市
  • 「入間川再発見!」 埼玉県西部地域博物館入間川展合同企画協議会
  • 「Arakawa Riverside View」 荒川知水資料館パンフレット
  • 「荒川放水路変遷誌」 国土交通省 荒川下流河川事務所
  • 「東京の自然史」 貝塚爽平 著 講談社学術文庫
  • 「東京古い地図」 アンドロイド アプリ

更新 2015/08/13